先生と「働き方改革」

楽園の学校

先生早く帰る!

Twitterでは、学校で奮闘する多くの先生方とつながらせていただき、三十数年間の教員生活を振り返って、若い先生方のその日々のつぶやきに「そーなんだよなーっ!」と共感することのが多い私ですが、その中でも最も感じ入るところが多いのは、やはり多忙を極める先生の「働き方改革」についてです。今も、定時で帰れない、家庭でも仕事を続けている先生は溢れるほどいて、実は私自身も長年その一人でした。早く帰る先生がまるでダメな先生みたいな受け取られ方では、学校は決して良くならない。事実教員志望者は減少の一途のようです。そこで、私も先生の「OB」なので、気になっているところを話してみたいのですよ。

先生の仕事を減らせ!

ある教員OBの話を聞きました。校長まで務めた人でしたが、次のような発言をされ、ずいぶん戸惑ってしまいました。それは、昨今は「働き方改革」とかで仕事時間を減らすことが大命題のようになっているらしいが、その改革とやらは、生徒のためにはなっていないだろう、というものでした。その場で質問する状況でもありませんでしたので、真意は確認できませんでしたが、やはり根底には、先生は時間を惜しまず、生徒のために粉骨砕身努力するべきだ、という思想が渦巻いているものと思われました。このような時代錯誤な意見がまかり通るくらいの状況だから、何でもいいから先生の業務を減らすことが大事なんだ、という原理主義が拮抗せざるを得なくなっているのが今の状況だと思うのです。でも、ただ仕事を減らせ!というスローガンだけで、先生の「働き方改革」は決して実現しないだろうな、というのが、私が教員生活を通じて得た、素朴な実感なのです。

すべては「労働生産性」の問題ではないですかね。

「働き方改革」というワードは、なんだか過労死対策のような意味合いで受け取られることが多いのですが、そもそもこの理解がおかしいと私は思いますよ。日本人の給料は20年以上も上がっていない、そんなことを耳にすることがあります。もちろん定期昇給分の上昇がありますから、そういうことを言われても~という人も、若い人を中心に多いはずです。しかし、これは厳然たる事実のようで、上がらないどころか、日本のサラリーマンの収入は、「手取り」ベースでは下がっているのが現実のようです。もちろん様々な理由があるのでしょう。日本企業の労働分配性の低さ、簡単には解雇できない独特の雇用慣行とそれに伴う労働者の流動性の低さなどなど、です。しかし、私が実感として痛切に感じるのは、やはり日本の「労働生産性」の低さです。「労働生産性」とは、「労働の成果(産出)」を「労働投入量」で割ったもの、素人が惧れを知らずに言い換えれば、価値を生み出すのにどれだけ働くか、ということでしょうか。私は、先生の「働き方改革」はこの労働生産性を無視してはありえないという立場です。三十数年教員をやってきた私だから断言しますが、先生という生き物はどんな仕事も、その向こうに生徒を思いながら、思い切りやり切ってしまう人たちです。ですから、そんな先生たちの働き方を改革するには、本来教員に要求すべき「労働の成果」を国民レベルで徹底的に検証する作業が必須なのです。泊を伴う行事にあたり、ある保護者から、入浴後きちんと体をふいたか、髪を乾かしたか、確認するよう求められた、という担任の先生のツイートを見ましたが、あれもこれも先生に頼み、任せることはもうやめて、本当に先生にしてもらいたいことは何か、国民のコンセンサスを図ることが必要だと思うのです。残念ながら日本の教育レベルはかつてのように高い水準でありません。国際競争力は落ちる一方であり、技術は錆びついて、システムは古ぼけている、こんな状況を喜ぶ国民は誰一人いないはずです。だって「発展」が見込めないのですから。今こそ、教師には本来教師が担うべき業務だけを残し、余計な仕事を期待しないと国民になりたいものです。

いつも心に太陽を!

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